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人格=私性の空虚02

April 10, 2020

統合された全体としての私、というものは存在しない。現前する生の現実はいずれも、無欠にして十分なものである。君は、こうした問題に思いをめぐらすとき、私が語る論理の上をすべっていってしまう無関心そのものとなるか、あるいは、私が提示する見解にたいするひとつの価値判断になりきってしまう、といえるのではないだろうか?それを書いているときの私は、君の関心を引きつけて説得するのにもっともふさわしいことばを探し求めるひとつの確信体になりきっている。そのような意図と、いくつかの筋肉にまつわる身体感覚と、窓の前にある樹木の清涼な茂みの視覚、それらが現在の私の自己を構成しているものである。

意図というこの精神的な付加部分が、絶対的に有効なものであると見なされるためには、それがひとつの自己とーかくも多くの詭弁を口にし、ひとり散歩に出かければ場末街の夕刻に喜びを見出す、いるのかいないのかわからぬホルヘ・ルイス・ボルヘスとやらとー一体になっている必要がある、と想定するのは虚栄というものだろう。