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人格=私性の空虚03

November 05, 2020

そのような統合された全体としての自己というのは存在しないのだ。個人のアイデンティティを、記憶の宝庫を排他的に所有していることとして定義する人は誤っている。そのように主張する人は、表象による言い換えを濫用して、記憶を、穀物蔵や倉庫のような永続性があって触知可能なものという形態でとらえてしまっているわけだが、実際には記憶とは、無数にある意識の状態の中には不鮮明なかたちで再度生起するものがたくさんある、ということを言うための名前でしかないのである。さらに言えば、もし私性の基盤を記憶に置くとするのなら、日常的であったり新味に乏しかったりするせいで長続きする刻印を私たちの中に刻まずに過ぎてしまった瞬間については、どのような立場をとったらいいのだろうか?そのような瞬間は長年月のうちに折り重なっていって、われわれの激しい貪欲の手が決して届かないところに落ち着いてしまう。そのすばらしき記憶とやらの欠陥を諸君は擁護するわけだろうが、実際に記憶が過去を全面的に現前させることが本当にあるのか?それは本当にいきているのか?官能主義者のように、君の私性を一連の精神状態の総和としてとらえる人たちも自らを欺いている。精査してみれば、そのとらえ方、自ら築いている基盤を突き崩す恥ずべき遠まわりでしかない。それこそ、自らを枯渇させるだけのものであり、あてにならない甘言、手の込んだ矛盾というものである。

晴れ渡った夜空全体を視界にとらえたとして、空にある星の数が正確にその視界内に描きこまれているとは誰も主張しないであろう。